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*鬼 [#d0b0489a]
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地域・文化:中国、日本

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 中国語の「鬼」は死者の霊、幽霊といった意味で((『中日大辞典 増補改訂版』s.v.))、日本語にも「鬼籍に入る」とか「餓鬼」などの語でその意味が保たれている。ただし厳密には幽霊よりも広い意味での死霊であり、現世にふたたび出没しなくても、死んだ人はみな、鬼になる。語源としては『説文解字』九上に「人の帰する所を鬼と為す」とあるのがよく知られている。しかし何に帰っていくのか。段玉裁(『説文解字注』)は郭注にひく尸子(前4世紀)が「いにしえは人が死ぬのを人が帰ると言った」というのを引用している。「人が死んだあとに成るもの」という解釈が行われていたわけだ。~
**一般的定義 [#gb010a10]
 中国語の「鬼」は死者の霊、幽霊といった意味で((『中日大辞典 増補改訂版』s.v.))、日本語にも「鬼籍に入る」とか「餓鬼」などの語でその意味が保たれている。ただし厳密には幽霊よりも広い意味での死霊であり、現世にふたたび出没しなくても、死んだ人はみな、鬼になる。語源としては『説文解字』九上に「人の帰する所を鬼と為す」とあるのがよく知られている。しかし何に帰っていくのか。段玉裁(『説文解字注』)は郭注にひく尸子(前4世紀)が「いにしえは人が死ぬのを人が帰ると言った」というのを引用している。「人が死んだあとに成るもの」という解釈が行われていたわけだ。

**時代別発音 [#q6c5958f]
 現代中国語の発音としては『普通話基礎方言基本詞彙対照表』(1996, p. 4071)によると合肥ではkui、南通ではkueなどごく一部に例外はあるが、どの方言でもおおよそクェイkuəi ~ kuei ~ kuɛiの間に収まる。シュスラーの整理するところによると、中古漢音はkjwəiᴮで、後漢音はkuiᴮ、再建古代音は*kui(('''ABC''', 267.))。プレイブランクによると『中原音韻』(1324、元代)ではkuj<後期中古漢音kyj<前期中古漢音kuj'((Edwin G. Pulleyblank, 1991, '''Lexicon of Reconstructed Pronunciation in Early Middle Chinese, Late Middle Chinese, and Early Mandarin,''' p. 115.))。

 しかし、こういう解釈をすると、「鬼」が第一義的に「死者の霊」だということになってしまい、鬼神や鬼魅、鬼蜮のように必ずしも死者の霊とは限らないものが派生的な用例だということになってしまう。それに魑・魅・魍・魎といった「鬼」扁の漢字の豊饒さがうまく説明できない。晋代の『抱朴子』内篇巻十七「登渉」なんかも「山川の百鬼、万精、虎狼、蟲毒」と並べているし、これこれこうすれば鬼は死ぬ、と書いていたりするところを見ると、死者の霊というより山川にすむ有害な妖怪の総称、というイメージがある。だから、原義を「人の何か」と限定する必要があるかどうかよくわからない。「威」*ʔjujを語源として、同源語に「畏」*ʔjuj-sを並ばせ、「鬼」*k-ʔjuj-ʔが「霊威をふるうもの」だったという説もある((William Baxter and Laurent Sagart, 1998, Word formation in Old Chinese, in '''New Approach to Chinese Word Formation''', pp. 47-48.))。これだけだと単なる意味のアナロジーによる推測にすぎない。しかし、前漢代までにまとめられた『山海経』海内北経には「鬼国は弐負の尸の北にあり、この物は、人面にして一つの目」とある。これが具体的に「鬼」そのものについて書いている『山海経』唯一の箇所だ。しかし「一つの目」といえば、として中野美代子が『中国の妖怪』(1983)で指摘しているのだが、大荒北経には「人あり、一つの目が面の真中にある。一書には、これが威の姓にして少昊の子、黍を食うと」とあるのだ。おそらくバクスターとサガートはこの事例に気付いていないが、「北経」の「隻眼」の存在が一方は「鬼の国」他方は「威の姓」とあるのは、彼らの語源論と重ね合わせると、単なる偶然とは言えなくなってくるのではないだろうか。また白川静によると、「畏」と「鬼」の甲骨文にはかなり密接な形態的類似が見られるという。甲骨文の「畏」は、甲骨文の「鬼」が棒か杖を持っているようにも見える((『新訂 字統 普及版』2007, p. 18.))。どうも鬼にある特性を付与したものだったらしい。「威」の金文のほうは白川によると「戈や戉(鉞)によって邪霊をしりぞける意味」(p. 17)で、形態的には似ていない。
 漢訳仏典だとプレータ、ピシャーチャ、ブータ、プシュヤ、アマヌシュヤ、グラハ、ピシャーチャカ、ピシャーチー、プータナ、パイトリヴィシャイカ、ブータグラハ、ヤクシャ、ラークシャサ、ヴェーターダ、ヴェーターラといった語の訳として「鬼」が割り当てられていたようである(『仏教漢梵大辞典』、p.1290)。
**鬼の原義 [#oecd7e5f]
 しかし、『説文解字』のように原義が人の霊魂だという解釈をすると、「鬼」が第一義的に「死者の霊」だということになってしまい、鬼神や鬼魅、鬼蜮のように必ずしも死者の霊とは限らないものが派生的な用例だということになってしまう。それに魑・魅・魍・魎といった「鬼」扁の漢字の豊饒さがうまく説明できない。晋代の『抱朴子』内篇巻十七「登渉」なんかも「山川の百鬼、万精、虎狼、蟲毒」と並べているし、これこれこうすれば鬼は死ぬ、と書いていたりするところを見ると、死者の霊というより山川にすむ有害な妖怪の総称、というイメージがある。だから、原義を「人の何か」と限定する必要があるかどうかよくわからない。「威」*ʔjujを語源として、同源語に「畏」*ʔjuj-sを並ばせ、「鬼」*k-ʔjuj-ʔが「霊威をふるうもの」だったという説もある((William Baxter and Laurent Sagart, 1998, Word formation in Old Chinese, in '''New Approach to Chinese Word Formation''', pp. 47-48.))。これだけだと単なる意味のアナロジーによる推測にすぎない。しかし、前漢代までにまとめられた『山海経』海内北経には「鬼国は弐負の尸の北にあり、この物は、人面にして一つの目」とある。これが具体的に「鬼」そのものについて書いている『山海経』唯一の箇所だ。しかし「一つの目」といえば、として中野美代子が『中国の妖怪』(1983)で指摘しているのだが、大荒北経には「人あり、一つの目が面の真中にある。一書には、これが威の姓にして少昊の子、黍を食うと」とあるのだ。おそらくバクスターとサガートはこの事例に気付いていないが、「北経」の「隻眼」の存在が一方は「鬼の国」他方は「威の姓」とあるのは、彼らの語源論と重ね合わせると、単なる偶然とは言えなくなってくるのではないだろうか。また白川静によると、「畏」と「鬼」の甲骨文にはかなり密接な形態的類似が見られるという。甲骨文の「畏」は、甲骨文の「鬼」が棒か杖を持っているようにも見える((『新訂 字統 普及版』2007, p. 18.))。どうも鬼にある特性を付与したものだったらしい。「威」の金文のほうは白川によると「戈や戉(鉞)によって邪霊をしりぞける意味」(p. 17)で、形態的には似ていない。
**関連項目 [#related]
-[[日本/鬼]]

-[[キーワード/霊魂]]
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参考資料 - 本文及び注参照。



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