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地域・文化:東アフリカ・エティオピア、エリトリア、チャド

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 ガルガンチュア、ガルガンテュア。

 フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』によってその名を永遠のものとした、中世フランス伝説の巨人。

 ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』は「第一之書」から「第五之書」まで全部で5巻あり、そのうち第一のみが「ガルガンチュワ物語」で、残りの4つが「パンタグリュエル物語」となっている。しかし、出版された順番は「第二之書 パンタグリュエル物語('''Pantagruel roy des Dipsodes''')」が最初というのが定説になっている(「第二」というのは、当時からついていた「第三」「第四」に倣って後でつけられた)。その「パンタグリュエル物語」第1章の、ノアの大洪水以前からパンタグリュエルに至る系図の中に、初めてパンタグリュエルの父親としてガルガンチュワの名称が登場する。ここではガルガンチュワは一国の王であり、ユートピア国の姫バドベックを后としていた。なお、バドベックは巨人パンタグリュエルを出産するにあたり死んでしまい、さっそく舞台から降りてしまう。それ以降、物語はパンタグリュエルと家臣パニュルジュを中心に進んでいく。パンタグリュエルがガルガンチュワの息子だというのはラブレーの全くの創作である。~
 この『パンタグリュエル物語』が出版されたのと同じ1532年8月に、それまで伝えられていたであろうガルガンチュワの伝説をまとめた『なみはずれて魁偉なる巨人ガルガンチュワの無双の大年代記('''Grandes et inestimables Cronicques du grant geant Gargantua''')』がリヨンで売りに出された。そして11月初旬にラブレーの『パンタグリュエル物語』がリヨンの書籍市で(アナグラムによる偽名で)売りに出された。この『なみはずれて(以下略、ガルガンチュワ大年代記)』はまさになみはずれて売れたらしく、ラブレーはその波に乗ろうとしてこのようなおっそろしい作品を作り上げたということらしい。そしてもちろん『パンタグリュエル物語』は売れ、やや面倒なことに、『ガルガンチュワ大年代記』がラブレーの物語を一部取り入れて新しい版が1534年に新たに売りに出された。この「一部」というのが「パンタグリュエルがガルガンチュワの息子」というところで、『ガルガンチュワ大年代記』がラブレー作ではないか、という疑問が生じる余地が生まれることになった(とはいえ、特に証拠もなく、だいたい否定されている)。そして同じく1534年に、「第一之書 ガルガンチュワ物語('''La vie très horrificque du Grand Gargantua, père de Pantagruel''')」がラブレーによって上梓された。ここではガルガンチュワの出生からパンタグリュエル以前までの物語が語られているが、どの他の書よりも『ガルガンチュワ大年代記』の果たしている役割が大きくなっている。つまり、物語の骨子として『ガルガンチュワ大年代記』が使われている部分が多いということである(もちろん、そこにはラブレーの途方もない創意が盛り込まれてはいるのだが)。より詳細なラブレーの作品と大年代記の関係は、渡辺一夫による両訳書の解説を参照してください……。~
 さて、『ガルガンチュワ大年代記』は、中世に伝えられていたガルガンチュワ伝説の集大成であり、ラブレーの元ネタであるとともに、ガルガンチュワ伝説に関しての最古の資料でもある。『パンタグリュエル物語』と『ガルガンチュワ大年代記』が同年に発行されていることから考えると何かおかしい気もするが、とにかくそういうことなのである。ガルガンチュワという名前自体については、『サン・レオナール在リモージュ司教付出納役記録簿、1467-1475('''Registre des comptes du receveur de l'évêque de Limoges à Saint-Léonard''')』の1470年(新暦では1471年)2月4日のところに「ガルガンチュワなる人物が司教邸を訪れて……」という記載がある。これは、おそらく司教の友人につけられたあだ名のようなもの、ということらしい。

 『ガルガンチュワ大年代記』では、ガルガンチュワは魔術師メルラン(マーリン)の助けを得つつ、アルチュス王(アーサー王)の家臣として活躍している。その内容は、史実というよりはポール・バニヤンの物語のように荒唐無稽で、民衆は面白半分という感じで受け入れられていたのかもしれない。

 自分が女によって永遠に監禁されてしまうことを予知したメルランは、アルチュス王を助けるために、ランスロ(ランスロット)の血液とジュニエーヴル(グィネヴィア)の爪の屑、それに動物の骨から2人の巨人を作り上げた。それがガルガンチュワの両親であるグラン・ゴジエとガルメルである。メルランは彼らのための巨大な雌馬も作り出した。~
 ガルメルから生まれた赤ん坊を見たグラン・ゴジエはガルガンチュワ(「見事な子を産んだな」という意味のギリシア語……とあるが、もちろんデタラメ)と言ったが、母親もそういう名前がよいと言ったので、この巨人の赤ん坊はガルガンチュワと名づけられた。~
 ガルガンチュワは、しばらくは普通の子供と同じように遊んでいたが(といっても途方もないスケールの「遊び」だが)、七歳になると父親によってアルチュス王の宮廷へと連れて行かれることになった。そのとき、グラン・ゴジエとガルメルはアルチュス王に自分たちの力を見せるため、頭に大きな岩を載せた。~
 さて、親子一行はまずローマへ、それからドイツ、スイス、ロレーヌ、大シャンパーニュへと旅をした。このときシャンパーニュには大森林があったが、雌馬が尻を刺した蝿を追い払うために尻尾を振り回し、おかげですべての木がなぎ倒されてしまった。ラ・ボースでも同じようなことがあった。ガルガンチュワはなんとかして馬を静めようとしたが、いろいろしているうちに小指に木の切り株を突き刺してしまった。そこで一同は、現在モン・サン・ミシェルのある浜辺へと向かった。ガルガンチュワはそこで包帯を巻いたが、彼らの事を知った人々が物凄い勢いで集まってきて、この巨人一家を見物しだした。このときグラン・ゴジエらは雌馬に乗せていた膨大な食糧を下ろしていたため、たちの悪いブルターニュ人たちがこっそりと、肉などを盗み出しはじめた。それに気付いたグラン・ゴジエは彼らをたしなめ、2000頭の雌牛を用意させた。彼は盗みが自分たちの置いている岩の陰で行われていると気付いたので、岩を海のかなり先まで移動させた。そしてその岩が、今ではモン・サン・ミシェルと呼ばれている。また、ガルメルも岩を移動させたが、これは今ではトンブレーヌ山と呼ばれている。しかし海から帰ってきた2人は熱を出してしまい、どんどん病状は悪化し、とうとう便秘で死んでしまった。~
 とりあえず悲しんだガルガンチュワは、噂に聞いていた大都市パリに行ってみることにした。ガルガンチュワは郊外に馬を置き、ノートルダム寺院の塔の一つに腰をおろした。しかし両足はセーヌ河に届いたらしい。ガルガンチュワは鐘を鳴らしてみたが、そのうちにパリの人々が集まってこの巨人を嘲笑し始めた。ガルガンチュワは最も大きな釣鐘2つを取り外して、そのまま持っていってしまった。パリ市民は後悔して、ガルガンチュワに多くの牛と羊を与えて出て行くように申し出た。ガルガンチュワはそれを承諾し、両親が死んだ海岸へと戻った。しかし、どういうわけかそこには死体はなかった。というのもメルランが魔法の力によって両親を埋葬してくれていたからであった。メルランに初めて出会ったガルガンチュワは、彼の言うとおりに馬を連れてきた。しかし馬は海を嫌ったため、そのまま放した。メルランは雲を呼び寄せてガルガンチュワと共にそれに乗り、ロンドン近くの海岸まで飛んでいった。~
 アルチュス王は彼の巨躯に驚き、まずは戦いを仕掛けてくるゴーやマゴーたちを征伐するように命じた。ガルガンチュワはいとも簡単にこの軍勢をなぎ倒し、あっという間に勝利を手にした。ガルガンチュワは王の用意した料理を食べたが、どういうわけか酒の類には手をつけなかった。食事後はガルガンチュワのための巨大な衣装が作成された。~
 ゴーやマゴーたちの来襲に続いて、次は朝貢国であったオランダとアイルランドがアルチュス王に対して反乱を企てた。アルチュス王は受けて立つ覚悟を固め、メルランはガルガンチュワに戦術を授けて戦争の準備をさせた。~
 アイルランドへと出向いたガルガンチュワは、攻撃してくる兵士たちを次々と、腰回りを含めた自分の衣服の中に詰め込んで、全員捕虜としてつれて帰った。アイルランド王はこれでは負けると思い、ガルガンチュワに和議を申し込んで、その猶予期間に軍備を立て直した。ガルガンチュワは和議のときに差し出された食糧を食べて寝込んでしまった。アイルランド側は格好のチャンスだと、兵力をガルガンチュワの寝ている谷間へと送り込んだ。しかし行ってみたはいいが、あまりにも巨大すぎるガルガンチュワは自然に溶け込んでしまっていて、どこにいるのだかさっぱりわからなかった。そうして谷を下っていたが、その谷は実はガルガンチュワの大口であった。~
 猶予期間が過ぎ、アイルランドとオランダは総反撃への準備をほぼ完了させた。20万もの兵力が集まったのである。しかしガルガンチュワは軽々と棍棒を振り回し、あっという間に半数以上を殺してしまった。ガルガンチュワは50人の王と重臣たちを捕虜にして連れて行き、それをメルランがアルチュス王の宮廷へと運んでいった。~
 この戦争が終わったとき、ロンドンからそう遠くないところに巨人がいて、ゴーやマゴーの恨みを果たすべく町を荒らしまわっているという噂が流れていた。そこでガルガンチュワは巨人のところへと赴き、戦いを挑んだ。近眼だった巨人は最初の一撃を外してしまい、ガルガンチュワによって腰を折り曲げられ、腰巾着のなかへと入れられてしまった。ガルガンチュワがアルチュス王のところに戻った頃には巨人は死んでいた。~
 『ガルガンチュワ大年代記』1532年版では、ガルガンチュワは200年3ヶ月4日の間アルチュス王に仕え、その後妖精のゲーン(おそらくモルガン)とメリュジーヌに伴われて仙境へ連れて行かれ、今でもそこにいることになっている。~
 しかし1533年版ではガルガンチュワはその後も活躍を続ける。ガルガンチュワはひとまずアルチュス王のもとを離れ、故郷に帰ることにした。50万の貨幣を与えられたガルガンチュワはまずオージュのサント・バルブへ行き、大量の林檎酒を飲み干した。しかし前述のようにガルガンチュワは下戸?だったため、途端に気分が悪くなってバイユーまでさ迷い歩き、腹の中にあったものを林檎酒を含めて全て流し出してしまった。ついでルーアンに向かい、今度はビールをたっぷり呑み、また同じように気分が悪くなってしまった。そこでガルガンチュワは再び大量のものを流しだしたが、そのために小川が出来てしまった。ちなみにこの小川の氷はビールを造るのに最適だということである……。このままでは町が崩壊してしまうと危惧した住民のうちの1人が、ガルガンチュワに、ラ・ロシェルで大量にパンとワインを飲めば助かりますよ、とガルガンチュワにアドバイスした。~
 ラ・ロシェルに着いたガルガンチュワは、そこの住民に食糧を用意させ、眠り込んだ。その間にまたブルターニュ人とガスコーニュ人が貨幣を見つけ、巾着の中に入ってしまった。しかし運悪くガルガンチュワが起きてしまったため、彼らはなんとか言いつくろってガルガンチュワのお供をすることになった。ガルガンチュワは長い旅を続け、ついに自分が求めていたであろう巨大な山のあるところへと到達した。そこには町があり、巨人たちが住んでいた。どうもこの巨人たちはそこの王ミオランの臣下らしく、王の姫の機嫌を伺いに来ていたようだった。しかし王はタルタール人やカニバル人に殺されて食べられてしまっていた。~
 ガルガンチュワはモランダンと名乗る巨人にそのことを聞き、「仇討ちしないとは何事だ」とぶち切れ、巨人の1人をいきなり殺してしまった。それを見た巨人のブゥトフォール隊長が人々に合図を送り、5321人の巨人たちがガルガンチュワに襲い掛かった。しかしガルガンチュワはたやすく彼らを叩きのめしてしまい、残りの100人はガルガンチュワの連れてきたガスコーニュ人の上を歩いて逃げてしまった。町の人々は降参してガルガンチュワに町の鍵を渡したが、ガルガンチュワは姫のバドベックに会うことを求めた。このバドベックもまた、巨大だった。先ほどの巨人の身長は25クーデだったが、彼女は29クーデもあったのである。にもかかわらず彼女はガルガンチュワを最初は恐れたが、ガルガンチュワが町を護ってくれるというので喜んで結婚した。~
 ガルガンチュワはこの国の王となり、何度も激しい戦いを繰り返し、結局501年在位した。『大年代記』1533年版では最後にガルガンチュワとバドベックの息子パンタグリュエルについても言及しているが、これは先述のように、ラブレーの影響を受けたものだと思われる。これで『大年代記』は終わる。
**関連項目 [#t4224cde]
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- [[キーワード/巨人]]
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参考資料 - フランソワ・ラブレー、渡辺一夫訳『パンタグリュエル物語』『ガルガンチュワ物語』; [[資料/259]]


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