ダイモーン

Daimōn
Δαιμων
Ⲇⲁⲓⲙⲱⲛ, Ⲧⲉⲙⲱⲛ(コプト文字*1)

地域・文化:古代ギリシア


 超自然的なものを意味する、非常に語義の広い言葉。
 ホメロスの時代は神々そのものをダイモーンと呼ぶことさえあったが、ソクラテスを助けたダイモーンのように、哲学者の時代になるとその威力は人々にとって身近なものとなっていった。
 しかし、結局はキリスト教の到来によってダイモーンは悪の存在を意味するようになった。

誤った語源説について

 ところで、フレッド・ゲティングズの『悪魔の事典』には、こうある。
「この言葉の起源は歴史全体を隠しており、本源的にはサンスクリット語の語根div(輝く)に発し、ギリシア語のダイモーンを経ているのである。この同じ語根から「デーヴァ」という言葉が生まれているが、これは人間の未来の進化を真に気づかう非物質的な霊をあらわすものとしてふさわしい」 (最後の部分は神智学的な定義だが、サンスクリット語の本義とは異なるので注意)。
 いったい何を根拠にこのような記述をしているのだろうか。ゲティングズによれば、デーモンという言葉はサンスクリット語の語根→ギリシア語→英語という流れになるらしい。「語根」がいったいどういう意味で理解されているか判断しかねるところであるが、彼は言葉がインドからどこかを経由してギリシアに入ってきたと言いたいのだろうか。だとすれば、ゲティングズはインド・ヨーロッパ語族について断片的にしか理解していないようである。
 インド・ヨーロッパ語族についてはWikipediaの記事を参照。大事なところを要約すると、ギリシア語とサンスクリット語はインド・ヨーロッパ語族という大きなグループに属しており、もともとは同じ言語(原印欧語)だったと推定されている。その言語が話されていた地域はアジア西部のどこか、カフカスとか中央アジア付近とか言われているが確定はできていない。これらの言語が共通だった時代は先史時代であり、前2千年紀に、原印欧語話者たちの子孫は侵略者として歴史上に現れるようになる。彼らはそれぞれインド、イラン、アナトリア、ギリシア、ヨーロッパ、中央アジアなどへと拡散していった。その言語拡散の過程は史上類を見ない大規模なもので、40世紀のちの現代に至るまで続いている。つまり、言語学的には原印欧語から古典ギリシア語やサンスクリット語が派生したのであって、サンスクリット語から古典ギリシア語という流れは存在しない(固有名詞程度ならアレクサンドロス以降流れ込んでいるが)。トンデモさんがよくやる間違いは、似ているものが2つあったとして、ダイレクトに2つを結び付けてしまうところにある。共通の祖先があったという可能性を考えない。
 サンスクリット語で神を意味するデーヴァdevaの語根にdevを持ってくるのは、今は置いておこう。しかし、devをギリシア語のdaimonにつなげるには、まず原印欧語にさかのぼらねばならない。サンスクリット語と古典ギリシア語の関係は、ラテン語と英語、またはスラヴ諸語とイラン諸語のように、地域的に併用されていたり隣接していたりするのとはわけが違うのである。とくにdaimonのように多義的な言葉で最古の文献資料(ホメロスに出てくる)にも頻繁に出てくる重要単語の場合、よほどの影響が説明できなければコジツケである。
 さて、近年の比較言語学が教えてくれるところによれば、デーヴァの語源は原印欧語で*deiuos(*は推定された形。実際に記録が存在するわけではないということ)である。この言葉の意味はもちろんわからないが、普通に「神」とか「天上の存在」を意味していたのだと思われる。そして原インド・イラン語ではおおよそ*devaのようになり、イランのアヴェスター語ではダエーワdaēuua、インドのサンスクリット語ではデーヴァdevaになった。ひるがえってこの言葉はラテン語ではデウスdeus、ギリシア語ではディオスdios(神聖な)やゼウスzeus、古北欧語ではティールtýr、古ゲルマン語ではツィウZiuとなった。
 ダイモーンのほうは、このように見ればわかるとおり明らかにデーヴァと同一語源ではない。推定される語根は*da-で、「分配する」といったことを意味するらしいが、*deiuosと比較すると証拠は少ない。
 このようにインド・ヨーロッパ語族の「流れ」を理解していればゲティングズのような書き方はできないはずである。広く知られている言葉・存在であればあるほど、多くの人々がその語源・起源に興味をひかれる。そのなかには言語学などの訓練を受けていない人も多いだろう(この文章を書いているtoroiaもだが)。そのようにしていい加減な知識から単純な語源・起源を引き出すことは簡単にできる。否定できるだけの知識や情報を持ち合わせていないからである。それは簡単でわかりやすいから、すぐに世間に広まってしまう。提案者が言語学とは別の場所で大家だったりすると、本来は存在しない別の分野での信頼性が付与されてしまうこともあるし、これが一番やっかいである。現にゲティングズの『悪魔の事典』はヨーロッパの悪魔については確かに比類ないものだが、そのおかげでネット上では疑うこともなくゲティングズの説が広まってしまっているのである。気をつけるべし。餅は餅屋。

関連項目


参考資料 -


*1 資料/650:159.

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Last-modified: 2011-01-11 (火) 02:27:27