竜とドラゴン
チベットの竜 †
チベットでナーガのことをル(klu, ཀླུ)という。仏教系の資料においては、ナーガを翻訳するときにルになるだけでなく、ナーガを含む固有名までもルに翻訳された(たとえば龍樹ことナーガールジュナ→klu-sgrub)。
有名なイェシュケの『蔵英辞典』(1881)にルの項目がある。著作権は切れているはずなので、訳してみましょう。
「起源的にはインドコブラのことだが、チベットでこの意味で使われることはなく、子供でも知っていて信じている神話的な意味がある。すなわち蛇の妖怪であり、頭は人間だが胴体は蛇という半神であり、泉や河川などに棲んでおり、莫大な財宝を見守り、雨を降らせ、さまざまな疾患をもたらし、怒らせると危険な存在になる。というわけで、γdúg-paはこの手の妖怪にあてられる普通の形容語である。klui skadはプラークリット語を意味し、klui yí-geはサンスクリット語のナーガリー文字を、つまり聖なるlandza, lhai yí-geとは対照的に、チャルットゥラと呼ばれる文字を意味する。klui γnod-paまたはskyon:原因不明の病気。klu-mo:女の蛇の妖怪。」」(p. 8)
私は最初、チベット語のkluは中国語の竜longに似ているから同一語源か中国語からの借用だと思っていたが、実は全然そうではなかった! ものの本によるとチベット語の「ル」の語源は、中国語の「ロン」の語源同様、よくわかっていないらしい。中国語との語源的関連を想定する説としては次の二つがある。
- 角のある竜「虯」(音読みキュウ、後漢時代giuないしkiu、古代中国語再建形も同じ)との関連。サウス・コブリンはこの語とチベット語のル(klu)を比較している*1。
- 「蛟」(音読みコウ、後漢時代kau、古代中国語再建形*krâu)との関連。アクセル・シュスラーは、ビルマ語の「人魚、蛇」を意味する語とともに、チベット語のル(klu)を比較している。「しかし古代中国語とチベット・ビルマ語は音声学的に離れている」とも注記している*2。
ル・モ †
ドゥク †
インドのナーガの訳語にkluが当てられているのに対して、中国語の竜に対して当てられているのはドゥク(ʼbrugまたはḥbrug, འབྲུག)である*3。ドゥクは雷と深い関係がある。というか、イェシュケやダスのチベット語辞典では第一義が「雷」、第二義が「竜」となっている*4。また、雷のことをドゥク単独ではなく「ドゥクの咆哮(音)」(ʼbrug-sgra, ʼbrug-skad)ともいう*5。
ドゥクと竜の対応は「竜」だけではなく十二支の「辰」にも及んでいて、この中国起源の暦を使うとき、チベットではドゥクという現地語が当てられた。初期の例としては、たとえば吐蕃時代(600-860)にチベット語へ「パラフレーズ」された『尚書』では、壬辰という語がchu-bo-ʼbrug「雄の水・竜」と訳されている*6。
なお、この単語は中国語やチベット語などシナ・チベット語族の祖先にあたるシナ・チベット祖語においては共通だったと考えられている(歴史言語学的にシナ・チベット祖語を認める場合)。
チベット語の方言にあたるゾンカ(語)が公用語になっている国ブータンは、自称「ドゥク・ユル」である。これは「竜の国」という意味であり、「竜」に当たるのがドゥクで、ローマ字ではdrukと綴る。これは上記チベット語のローマ字表記が逐字的な転写なのに対して、drukが音声に対応した翻字になっているからである。ただし発音上は音節末の-kがなくなって「ドゥー」(druː)となる*7。
英語版Wikipediaなどを見ていると丁寧にdrukがthunder dragonと翻訳され、日本語Wikipediaでもそれを訳した「雷竜」という語が当てられている(ほかの多くのページでも)。しかし、もともと漢字の竜はチベット語のʼbrug ~ drukと同じく雷と深い関係があるわけだし、それに語源的にも同一だと考えられているのは上述したとおりである。だからドゥーを「雷竜」というのは、英語圏でdragonと「雷」との関連が薄いからといってthunderを付け加えているのに引きずられた過剰翻訳というべきだろう。
チベット・ビルマ諸語の「竜」 †
文字通りチベット語とビルマ語が含まれ、シナ・チベット語族の漢語以外を含む大語派であるチベット・ビルマ諸語50あまりにおいて基本単語がどのように発音されているのかをリストアップした『蔵緬語語音和詞彙』に「竜」の項目があるのをみつけたので(p.492)、ここに丸写しにしてみる。
「言語名」は原書にあった中国語表記。カッコ内は方言。語は「文語」とある以外、おそらく発音を表記したもの。文字の肩についている数字は声調記号。備考欄には、言語名が日本語でいうどの民族や言語、地方の方言にあたるのかを書いた。チベット語やビルマ語などを除いてマイナー言語ばかりなのであまり見ていても面白くないかもしれない。そのうち言語系統樹に則ってレイアウトを変更する予定。また、発音の正確なところがわかればカタカナ表記もする予定。
言語名 | 語 | 民族など備考 |
蔵文語 | ɦbrug | チベット文語 |
蔵語(ラサ) | tʂuʔ¹³ | |
錯那門巴語 | bruʔ⁵³ | メンパ族 |
墨脱門巴語 | bruʔ | |
僜語(達譲) | bu³¹ɹuɑ³⁵ | Digaru |
珞巴語(義都) | bɯ³¹ ɹuɑ³⁵ | ローバ族、ミドゥ |
羌語(麻窝) | bəʴk | チャン族 |
蔵語(徳格) | ndʐuʔ⁵³ | カム地方 |
蔵語(夏河) | ndʐək | アムド地方 |
蔵語(沢庫) | mdʐək | |
爾龔語 | mbʐu | Ergong |
木雅語 | ndʐu³⁵ | ムニャ族 |
扎巴語 | ndʐu⁵³ | ジャパ語 |
貴瓊語 | ndʐu³⁵ | グイチョン語 |
独龍語 | dʑŭʔ⁵⁵ | トーロン族 |
普米語(桃巴) | bʐo⁵⁵ | プミ族 |
爾蘇語(甘洛) | rɩ³³dzɛ⁵⁵ | アルス語 |
納木義語 | əʴ⁵⁵dʐa³³ | ナムイ語 |
羌語(桃坪) | χbə²⁴¹ | |
土家語 | phu³⁵ | トゥチャ族 |
史興語 | mɐ³³dʒuɛ⁵⁵ | シヒン語 |
阿昌語 | mʐui⁵⁵tʂuŋ³¹ | アチャン族 |
載瓦語 | man⁵¹tʃum⁵¹ | アツィ語 |
浪速語 | mɔ̃³¹tʃauŋ³⁵ | ランス語 |
僜語(格曼) | tɯ³¹mɑ̆uŋ⁵³ | Midźu |
彝語(喜徳) | l̩(u)³³, ᶊɩ⁴⁴ko³³ | イ族 |
彝語(大方) | lɒ³³ | |
彝語(南澗) | lu²¹ | |
彝語(南華) | lu²¹ | |
彝語(弥勒) | lo²¹ | |
彝語(墨江) | lo³³ | |
拉祜語 | lɔ⁵³ | ラフ族 |
傈僳語 | lu³¹ | リス族 |
納西語(*江) | lv³¹ | ナシ族 |
納西語(永宁) | mv³³, bv³³, ʐv⁵⁵ | |
怒語(福貢) | lu³¹ | ヌー族 |
怒語(碧江) | liu³⁵ | |
白語(碧江) | lu²¹ | ペー族 |
白語(大理) | nv²¹ | |
白語(剣川) | nv²¹ | |
景頗語 | pɑ̆³¹ʒen³¹ | ジンポー族(カチン) |
哈尼語(碧卡) | pi̠³³jɔ³¹ | ハニ族、アカ族 |
哈尼語(哈雅) | be³³jɔ³¹ | |
哈尼語(豪白) | pi̠³³ʒu³¹ | |
基諾語 | pu³³xo³³a³³mɔ³³ | ジーヌオ |
嘉絨語(梭磨) | ta rmok | ジャロン |
普米語(箐花) | ɕi⁵⁵ | |
緬文語 | nɑgɑ³ | ビルマ文語 |
緬語(仰光) | nɑ⁵³gɑ⁵⁵ | ビルマ語 |
西夏語 | [山/鬼] | 西夏文字 |
cf. http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/1566/1/SER39_006.pdf