竜とドラゴン

『妙法蓮華経』の八大竜王

 仏教の竜王中、もっとも有名にして有力な竜王たちのこと。『妙法蓮華経』「序品」にあるリストが日本で一番よく知られている。

  • 難陀竜王 なんだ
  • 跋難陀竜王 ばつなんだ
  • 娑伽羅竜王 しゃがら
  • 和修吉竜王 わしゅきつ
  • 徳叉迦竜王 とくしゃか
  • 阿那婆達多竜王 あなばだつた
  • 摩那斯竜王 まなし
  • 優鉢羅竜王 うはつら

でも、単に竜王を8つ並べるだけなら他の竜王が入ることも多い。

ナンダ・ウパナンダ

 難陀と跋難陀は兄弟竜王なので、経典中はつねに並べて紹介されている。だから難陀跋難陀竜王とされていても、ナンダバツナンダ竜王という一頭の竜王のことではない。 たとえば次のような神話がある。

 そのむかし、難陀跋難陀の兄弟竜王が娑伽羅竜王と戦ったことがあった。この戦いは海の中で7日7夜にわたって行なわれ、この3竜王がいずれも毒を吐いたため、海の水がすべて毒に変わってしまった。そこに大自在天が現れて「不空摩尼香王」という香の一種を体に塗り、服を薫じてその神力を借り、難陀・跋難陀・娑伽竜王が吐いた海中の毒をすべて吸い取った。このとき、毒によって大自在天の首の色は青くなったが、毒は甘露に変えられた。
『不空羂索神変真言経』(T1092)第十六章「広博摩尼香王品」より。乳海攪拌神話参照

 このように、いくら仏法に忠実であるとはいえ、それぞれの竜王が必ずしも仲がいい、というわけではないようだ。とはいえ難陀跋難陀のニ竜王だけは運命を共にしている、というのがわかる。そもそも昔は仏法に忠実でさえなかった。兄弟なので、悪いことをするときも一緒である。
むかし、舎衛城にある仏の信者がいて、仏から六度の教えを聞いていた。彼が仏や仏弟子に供養しようとしたところ、二体の竜王がやってきて瞋恚を吐き、気を吐いて雲を作り出し、天を暗くしてこれを邪魔した。愛波という羅漢がこれを止めさせようとしたが、竜たちは非常に威力があるのでかなわない。仏がいうにはこの竜の名前は難頭(なんず=ナンダ)と和難(わなん=ウパナンダ)の兄弟竜王であり、その身で須弥山を七回ぐるぐる巻いて隠し、頭でこれを覆い、気を吐いて霧を出すが故に暗くなっているのであった。そこで仏弟子最強の目連が仏に許しを得て竜王たちを懲らしめにいくことにした。
 目連を見た竜たちは怒って煙を出し、火を噴いた。しかし目連も竜に変化して煙を出し、須弥山を七回巻けるほどの両竜王をさらに三回取り巻き、さらに14回も取り巻く。その上分身を竜王の右目から入れては左目から出し、左目から入れては右目から出し、そんなこんなで目連は自在に竜王たちの体の中に入り込んだ。目連竜は兄弟竜王を取り巻いた上に須弥山を頭で覆い、尾で海水を打って百獣を震え上がらせ、最後に難頭・和難二竜王を他の世界に弾き飛ばした。
 目連は普通の人間の姿に戻り、竜王たちも人間の姿になって降参し、仏の前に頭を垂れ、五戒を受けたのだった。
 『竜王兄弟経』(T597)より。呉の支謙訳。
 『長阿含経』(T1)巻第二十一第四分「世記経」にも、難陀竜王と跋難陀竜王が須弥山を七重に取り巻き、山谷を震動させ、雲を生み出して雨を降らし、尾で大海を打ってその飛沫を須弥山の頂にまで跳ね飛ばす、という描写がある。竜王たちはこの後阿須倫(阿修羅)たちと戦闘するが、負けてしまう。

 ところで 漢訳仏典で固有名詞を調べるときにもっとも大きな壁が、原典のサンスクリット文にある固有名詞を翻訳するときの不統一さである。ある訳者は音を一つ一つ漢字に当てはめ、ある訳者は意味から当てはまる漢字をつける。そして訳者ごとに梵語と漢字の音対応が違えば意訳の方法もずいぶんと違ってくる。同じ経典内でさえ、違うことがある。だから、たとえ完備された索引を引いても仏典の全文検索をしても、必ずしも、というかほとんどの場合で、あるサンスクリット単語がどの漢訳仏典に現れるか、を完全に網羅することは不可能に近いのである。
 竜王の中でもとくにポピュラーなナンダ・ウパナンダ竜王の場合、音写するだけでもそのバリエーションは無数にある。以下の表は、『大正大蔵経』密教部上索引から適当に引っ張ってきたもの。膨大な大蔵経のうちの2巻だけでもこれだけ差異があるのだ(とはいっても、密教部は他のどのパートよりも固有名詞が多いので、これを探せば事足りる、ともいえるけど)。

ナンダウパナンダ経典名
難徒跋難陀『大毘盧遮那成仏神変加持経』巻第五、T848
難徒拔難徒『攝大毘盧遮那成仏神変加持経入蓮華胎蔵海会悲生曼荼攞広大念誦儀軌供養方便会』巻二、T850
難陀烏波竜『大毘盧遮那成仏神変加持経蓮華胎蔵悲生曼荼羅広大成就儀軌供養方便会』巻二、T852a
難陀拔難陀『大毘盧遮那成仏神変加持経蓮華胎蔵悲生曼荼羅広大成就儀軌供養方便会』第二、T852a
難徒跋難徒『大毘盧遮那成仏神変加持経蓮華胎蔵菩提幢標幟普通真言蔵広大成就瑜伽』巻三、T853
跋難馱『青竜寺軌記』巻一、T855
難陀竜王(……)憂婆難陀竜王『仏説陀羅尼集経』巻第十二、T901
難陀烏波難陀・二竜王『一字奇特仏頂経』巻一、T953
難陀跋難陀竜王『仏母大金曜孔雀明王経』巻中、T982
難陀龍王塢波難馱竜王『仏母大金曜孔雀明王』巻中、T982
難陀優婆難陀竜王『孔雀王呪経』巻一、T984
難土波難陀・二竜王『孔雀王呪経』巻二、T984
難陀竜王小難陀竜王『仏説大孔雀呪王經』巻中、T985
難陀塢波難陀竜王『大雲輪請雨経』巻一、T989
難陀竜王優鉢難陀竜王『大雲輪請雨経』巻上、T991
難陀優波難陀竜王『大方等大雲経請雨品第六十四』、T992
難陀龍王鄥波難陀竜王『大宝広博樓閣善住秘密陀羅尼経』巻上、T1005a

※ナンダの最後がダではなくドとなっているものがあるのは、サンスクリットの文法による。ナンダとウパナンダは兄弟なので、一緒に並べるときはナンダウパナンダではなくナンドーパナンダ(Nandopananda)となる。

サーガラ

 さて、お次は兄弟竜王と戦って海中に猛毒を撒き散らしたサーガラ竜王です。

 ナンダ・ウパナンダにしたがってここでもまず表記の違いを羅列してみる。

  • 娑伽羅竜王(『妙法蓮華経』序)
  • 娑竭羅竜王(『添品妙法蓮華経』見宝塔品第十一)
  • 沙曷竜王(『薩曇分陀利経』)
  • 娑蘖囉竜王(『佛母大孔雀明王経』卷中、T982)
  • 娑揭羅竜王(『佛説大孔雀呪王経』巻二、T985)
  • 莎伽羅竜王(『孔雀王呪経』巻二、T984)
  • 大海主娑竭羅竜王(『宝悉地成仏陀羅尼経』T962)
  • 海竜王(『蘇婆呼童子請問経』巻上、T895a)  最後のほうに「海竜王」とあるように、サーガラは海と非常に関連がふかい竜王である。そもそも、サーガラ(सागर 、sāgara)という言葉がサンスクリットでそのまま「海」「大洋」を意味する言葉なのである。

 ただし、日本では、サーガラよりむしろ娘のほうが知られている。というのも、『妙法蓮華経』に、法華経の威力を存分に発揮する存在として現れているからである。

 でも、もっと知られているのは法華経に現れる娘の、姉妹のほうだったりする。

清滝権現は娑伽羅竜王の三女、安芸国の一宮伊都岐嶋(厳島)の明神は長女、仏がいたとき8歳だったのは次女である

というようなことが『醍醐寺新要録』巻第二「厳島明神託宣事」にいわれている*1。牛頭天王が結婚するのもサーガラ竜王の娘とされている。

ヴァースキ、タクシャカ

 ナンダ、ウパナンダ、サーガラはインド本土ではかなりマイナーな竜王であったようである。たとえば、菅沼晃『インド神話伝説辞典』にはナーガとしてのこれら3竜王は索引にさえ載っていない。しかし、ヴァースキとタクシャカは違う。たとえばタクシャカは『マハーバーラタ』第一巻の初めのほうに登場するし、ヴァースキは乳海攪拌神話で重要な役割を果たしているのである(しかし上述のように仏典においては毒を吐く役割はナンダ、ウパナンダ、サーガラに奪われてしまっている)。いわば正統的なナーガラージャ、竜王がこのヴァースキとタクシャカなのだ。

微妙な漢字の違い

 ナンダ・ウパナンダのところでも書いたが、この八大竜王も、いくら日本で漢字で知られているとはいえ、もともとサンスクリットである。それぞれナンダ、ウパナンダ、サーガラ、ヴァースキ、タクシャカ、アナヴァタプタ、マナスヴィン、ウトパラカ。 八大竜王の法華経リストが法華経系以外の経典にあるのかどうかは知らないが、同じ単語から訳されても以下のような違いが生じる。

妙法蓮華経難陀竜王跋難陀竜王娑伽羅竜王和脩吉竜王徳叉迦竜王阿那婆達多竜王摩那斯竜王優鉢羅竜王
添品妙法蓮華経難陀竜王跋難陀竜王娑伽羅竜王和脩吉竜王徳叉迦竜王阿那婆達多竜王摩那斯竜王漚鉢羅竜王
妙法蓮華経提婆達多品第十二娑?竭羅竜王
添品妙法蓮華経見宝塔品第十一娑竭羅竜王
薩曇分陀利経沙曷竜王

次はヴァースキの場合。

  • 婆修已龍王(『孔雀王呪経』巻上、T984)
  • 婆修羈龍王(『大方等大雲經請雨品第六十四』、T992)
  • 婆修吉龍王(『金剛光焰止風雨陀羅尼經』、T1027a)
  • 婆素枳龍(『仏説大孔雀呪王経』巻上、T985)
  • 婆素雞龍王(『陀羅尼集経』巻六、T901)
  • 婆蘇枳龍(『仏母大孔雀明王経』巻上、T982)
  • 婆蘇吉龍王(『一字奇特仏頂経』巻上、T953)
  • 嚩素吉龍王(『大雲輪請雨経』巻上、T989)
  • 嚩酥枳龍王(『仏説瑜伽大教王経』巻第五、T890)

『妙法蓮華経』以外の八大竜王

佛説瑜伽大教王經(T18 no.890, 579b)阿難多龍王アナンタ酤哩哥龍王カーリカ?嚩酥枳龍王ヴァースキ怛叉哥龍王タクシャカ摩賀鉢訥摩龍王マハーパドマ羯哩酤吒哥龍王カルコータカ商珂播羅龍王?鉢訥摩龍王パドマ
佛説大摩里支菩薩經(T21 no.1257, 273b)
※八方位指定あり
阿難多大龍王アナンタ嚩酥枳龍王ヴァースキ徳叉迦龍王タクシャカ迦里倶吒迦龍王カルコータカ商佉波羅龍王シャンカパラ?大鉢納摩龍王マハーパドマ鉢納摩龍王パドマ倶隷迦龍王クリカ
大吉義神呪經(T21 no.1335, 570b=571a)阿那婆達多龍王アナヴァタプタ拔留那龍王ヴァルナ毘留勒龍王?修鉢囉龍王シャバラ㨖絺都龍王?難陀龍王ナンダ優波難陀龍王ウパナンダ娑伽羅龍王サーガラ
何耶掲唎婆觀世音菩薩受法壇(T20 no.1074, 172a)難陀龍王ナンダ婆素難龍王ヴァースキ徳叉迦龍王タクシャカ羯固奼龍王?般摩龍王パドマ摩訶般摩龍王マハーパドマ商佉波羅龍王シャンカパラ?鳩利迦龍王クリカ
瑜伽師地論(T30 no.1579, 287a)
大日經疏演奧鈔(T59 no.2216, 173a*2)
持地龍王歡喜近喜龍王ナンダ、ウパナンダ馬騾龍王?目支隣陀龍王ムチャリンダ意猛龍王?持國龍王大黒龍王マハーカーラ黳羅葉龍王エーラパトラ?

*1 増記隆介、2003「奈良国立博物館所蔵普賢十羅刹女像について」
*2 「此中歡喜近喜當難陀拔難陀。雖兄弟二龍。所居宮殿是一處。故總合屬一龍歟」、「この中で歓喜近喜は難陀と拔難陀に当たる、兄弟竜のことである。住んでいる宮殿が同じなので、まとめてひとつの竜としている」とある。

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Last-modified: 2008-09-21 (日) 09:55:55 (4275d)