竜とドラゴン

イランの竜旗

 帝政末期のローマ(とくに4~5世紀)にはドラコ(draco)をその軍旗として採用していた軍隊が多かった(ウェールズのドラゴンはこのドラコが起源であるとされるが、正確にはイングランド経由であろう*1)。彼らがドラコを採用したのはパルティアやダキアといった、イランなどの東方からの影響があったと考えられている*2。たとえばイラン宗教の影響があった地域の「男性結社」(Männerbünde)を構成していた軍事集団においてドラゴンが重要な役割を持っていたことはヴィーデングレンが指摘している。「北東イランとアルメニアにおいて、この[男性結社]宗教形式が強く集中しているのを見ることができる。ここにおいては、ドラゴン信仰が大きな位置を占めていた。パルティアにおいて、軍事的エリート集団は「ドラゴン」と呼ばれていた。ドラゴンの軍旗が使用された。若い戦士たちは、装飾にドラゴンを象った兜をつけることを好んだ」*3

 ルキアノスは『歴史は如何に記述すべきか』のなかに「パルティアの蛇」のことを書いている。この著作は、全体としては紀元後162年から165年までにわたる、帝政ローマとパルティアとの戦争の時代に現れた有象無象の歴史家たちの著述を、トゥキュディデスに拠りながら批判する、という内容である。戦争が行なわれたのは、地域としてはアルメニア、シリア、メソポタミア、メディアあたりである。
 ルキアノスは「シュリアやアルメニアを見ないどころか、コリントスから一歩も踏み出した」こともない歴史家がやたら詳細に「事実」を記述していることをあげつらう。その歴史家氏によると、パルティア軍は蛇を軍隊の数の標識にしていた。一つの蛇がどうやら1000人にあたるようだ。この蛇はイベリアを少し越えたペルシアの地に住んでいる本物の生きた大蛇であり、以前からパルティア人たちはこの蛇を大きな棒に縛り付けて高くにふりまわし、遠くからも見えるようにして、敵に恐怖心を起こさせていた。白兵戦が始まると彼らはこの蛇を敵の頭上へと放り投げる。すると蛇は大暴れをはじめ、ローマ軍の兵士たちを呑み込んだりまきついて殺したりしたのだという*4
 要するにこの記述は伝聞の伝聞にすぎないということでかなり虚構に近い、ということをルキアノスは言っているわけだ。ただ、本物の大蛇を生きたまま棹の先に取り付け、それを振り回し敵陣に落として武装兵を襲撃させるというのはウソだとしても、蛇のような形をしたものを旗として使っていたと解釈してみるのはアリだろう。事実、後世ローマの著述家たちの一部はローマ軍のドラコ軍旗をパルティア起源であろうとしている。ちなみにここで「蛇」と訳されている原語はドラコーン(δρακν)である*5

 パルティアはイラン系の民族だったが、その後イラン本土で具体的に蛇や竜の旗が実際に使われたという記述はほとんどないらしい。しかし英雄叙事詩の中にはそのような旗の記述がみえる。それを使っているのが誰かというと、ペルシア人なら誰でも知っている、イランを代表する英雄ロスタムであった。
 ペルシアの詩人フェルドウスィー作になる『王書』第2部(A.D.1009/10)の、ロスタムの息子ソフラーブを中心として描いている章に、策略にはまり、期せずしてまだ見ぬ実父ロスタムと戦うことになってしまった彼の姿が歌われている。もちろんソフラーブは父親と戦いたくないので、遠くからイランの軍勢を観察し、近くの者(策略をしかけた人間)にあの陣地は誰のものか、ということを尋ねる。太陽の旗はイラン王のもの、象の旗はナウザル王の王子のもの、獅子の旗はキシュワードの子グーダルズのもの、狼の旗はグーダルズの子ギーヴのおの、月の旗はゴラーズのもの、そして「竜の姿を描き、旗竿の尖端は黄金の頭の獅子になっている」のは……。相手は「シナから王のもとへきた盟邦の首長」であると答える。しかし実は、その竜の旗こそロスタムの目印だったのである*6
 そのほかにも『王書』ではロスタムの祖父サームやロスタムの息子ファラーマルズも竜旗を翻していたらしい。
 なお、ロスタムの家系における竜旗の存在やその他いろいろな理由と上記パルティアの竜旗が関係あるとして、ロスタムはパルティア起源の伝説人物であるとする説もある*7

 この軍旗を使用していたらしいサルマティア人は、ヘロドトスの『歴史』にはサウロマタイ(sg. Σαυροματης)として現れる、スキタイ人の東側に住んでいた騎馬民族である。この名称は自称ではなくギリシア人によってつけられた名前らしく、その語源はギリシア語で「トカゲ」を意味するサウロス(σαυρος、多くの恐竜などの名前につくサウルスはこのラテン語形である)であるらしい。そしてサルマティア人がそのように呼ばれた背景には、彼らが掲げていた蛇のような槍の先についた旗幟に由来するのだという説がある。この「トカゲ」はサルマティア人社会にあっては何らかのトーテム的な機能を果たしていたのである*8(このことは、後々「サルマティア・コネクション」とか呼ばれてアーサー王伝説の起源を探究する一派に使われるわけだが)。
 toroia思うに、ヘロドトスや当時のギリシア人がイラン系騎馬民族の旗を、大蛇を意味するギリシア語のdrakōnではなくトカゲを意味するサウロスであると形容したのにはわけがある。おそらくそれは現代でいうドラゴンだったのだ。しかし古代ギリシア人にとってドラコンは大きな蛇のことであり、耳が生えていたり手足が生えていたり余計なものがついている生き物ではなかった。だから彼らはサウロマタイのトーテム動物を、脚があったり背びれがあったりするトカゲであると考えたのだろう。となると仮説は2つ。一つは、サウロマタイのトーテムまたは旗の文様が、本当にトカゲだった。もう一つは、蛇をベースにした架空の合成獣であった。トカゲがユーラシアの神話伝説に占める役割が非常に少ないことを考え合わせると、前者である可能性はあまりないように思われる。

 しかしサウロマタイやスキタイなどのイラン系遊牧騎馬民族の直接の子孫であるオセット人たちは、多くの軍事的文化を受け継いでいるのにもかかわらず、この「ドラコ軍旗」は受け継がなかったらしい。また、神話や地元の古文書にも対応する事物が見出せない。そのため、直接的な伝承は現在失われてしまい、ほとんど何も知ることができない状態のままである。

後期ローマの軍旗(military standard)についての詳しい情報はFECTIO内のThe draco, the Late Romanmilitary standardにもある。実際にドラゴン軍旗をつくっているのが面白いです。

内陸アジアの蛇-狼

 ローマ軍のドラコは必ずしも単純な蛇であるというわけではなく、「狼」の要素を具有したものが知られていた。また、ダキア人は軍旗に狼頭のドラゴンを描いていた。さらに東方にいくと、トルキスタンには、一頭の狼か狼頭のドラゴンが表現された軍旗が描かれている壁画が存在する*9

 では、この「狼」要素はいったい何を意味するのだろうか? その起源はおそらく紀元前の内陸アジアにある。しかしその意味については、依然としてはっきりとはわかっていない。

 サマルカンド(現在はウズベキスタン)の西方にあるクルガン・テペで発掘された、騎馬民族による戦争を描いたKriegsplatte(ドイツ語で「戦闘板」)にも似たような吹き流しが描写されている。年代はおよそ前2~1世紀ごろのもので、当然ローマ軍のドラコよりも時代をさかのぼる。
 おそらく武装した騎馬武者の肩あたりに縛られている棒が垂直に伸び、あまり高くない位置に、明らかに鯉のぼり風の吹流し(描かれたものから推測すると、全長は馬の首より少し長い程度)が風にたなびいているのが確認できる。斑点か格子模様のような装飾が長い胴の方に施されており、尾はざっと見た感じでは上下2つに分かれて長く伸びている。残念ながら「頭」の部分は印刷が悪いのかそもそも磨耗が激しいのか分からないが、はっきりとは見えない。ただし蛇やトカゲよりはオオカミに近いように見えなくもない。吹流しを持っているのは状況が有利になりつつあるほうの左に描かれた部隊の一人であり、全体の左下を大きく占めて、もっとも目立った人である。彼以外には誰もこの吹流しを立てていないし、持ってもいない*10
 ブレンチェスによると、このようなドラコ軍旗は西トルキスタンからノルマン人の『バイユーのタペストリ』まで、広くみられるものだという*11

ランゴバルド人アギウルフ


*1 J.S.P. Tatlok, The Dragons of Wessex and Wales, Speculum, 8.2(1933), 223-235.
*2 ミルチア・エリアーデ『ザルモクシスからジンギスカンへ(1)』p.28.
*3 Geo Widengren, Stand und Aufgaben der iranischen Religionsgeschichte, Numen 1.1(1954): 67.
*4 ルキアーノス、山田潤二訳、「歴史は如何に記述すべきか」『神々の対話 他六篇』pp. 259-60.
*5 Geo Widengren, 1969, Der Feudalismus im alten Iran, S.18, n38.
*6 フェルドウスィー『王書古代ペルシャの神話・伝説』岡田恵美子訳、pp. 236-45
*7 A. Sh. Shahbazi, The Parthian Origins of the House of Rustam, Bulletin of the Asia Institute 7(1993): 159.
*8 C・スコット・リトリトン、リンダ・A・マルカー『アーサー王伝説の起源』p.212
*9 ミルチア・エリアーデ『ザルモクシスからジンギスカンへ(1)』p.28.
*10 B. Brentjes, Zu den Reiterbildern von Kurgan-Tepe, Iranica Antiqua 25 (1990): 177, Abb. 4.
*11 Ibid., 179.

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Last-modified: 2009-07-11 (土) 15:20:48 (4018d)